気づこうとすること。

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

遂に100記事目ですよ〜(๐›ω‹๐)੭

毎日毎日ブログ書いてきました。

 

これでひとまず目標達成ですね〜( *¯ ꒳¯*)

これまでは毎日更新してましたが、明日からは気が向いたときに各スタイルになりますね。何ヶ月も書かないことになるかもしれませんが…(⌒-⌒; )

 

さて、これまでの100の記事を通して拙いながらもいろんなことを考えてきました…

そもそも考えるとは何か、幸せに生きるためにはどうすればいいか、問題解決のための方法、ヒッチハイクの話もちょこっとしましたね。

 

書き始めると意外と書けちゃうものだな〜って思ってます。

 

さて、じゃあこれらの記事を書くことで何が得られたか。

収益化は考えてなかったので、稼いだお金はゼロ円です。

毎日書くということが負担になることもありました。

 

しかし、書くことによって思考が整理されたり、見てくれた人から意見をもらえたり、ブログに書こうという意識で何かに取り組むことでインプットの質が上がったり、普通に過ごしていたら気づかないことに気づいたりしました。

 

一番の収穫はどれかと言われると甲乙つけ難いですが、気づくということに関して感じたことがあります。

 

人は皆、自分の好きなフィルターを通して世界を見ています。

ブログに書くネタがほしいというフィルターを通して世界を見るとブログのネタが見つかります。

美味しいご飯が食べたいと思いながら街を歩くといい店が見つかります。

簿記を勉強したいと思いながら本屋に行くと、やたらと簿記の本ばかりが目にとまります。

 

これらは自分が見たい世界を見るためにフィルターを作っているからです。

フィルターを作ることは悪いことでもなんでもなく、むしろいい方向に使えばいい世界で生きられます。

 

幸せについて考えながら生きていたら幸せを見つけやすいかもしれません。

友達がほしいと思っていたら、たまたま街で出会った人と友達になれるかもしれません。

 

世界はいつも素敵だと思いながら生きていると、素敵な世界で生きられます。

 

あなたはもう、気づいていますか?

この世界はあなたの思い通りです。

毎日をただ呆然と過ごすのではなく、理想の世界を思い描いて世界を見渡しましょう。

きっとこれまで気づかなかった何かに出会えるはずです。

 

僕は明日からブログの更新頻度はかなり少なくなりますが、それでも毎日何かを考えながら生きていきます。

この世界には何があるのか、いろんなことを知りたいし、体験したいです。

 

新しいことに気づき、素敵な世界で生きたいです。

気づこうとすれば何かに気づけます。

 

気づく力を以って世界を見る。

これからも素敵な世界で生きていきたいです。

 

 

 

それでは、今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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アルバイトを転々とすることのメリット

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

コンビニでアルバイトを始めてかれこれ一年以上が経ちました。

学校の長期休暇に合わせて2ヶ月くらいバイトを休むのが許されるのが魅力的なところで、マイペースに働いているうちに一年以上です。

 

アルバイトなんて基本的にお金稼ぎ目的なので、楽に稼げるところが見つかれば敢えて別のアルバイトを探す必要はないのですが、僕はバイト先は転々としたほうがいいと思っています。

 

一年以上同じバイトをしている僕が言っても説得力はないかもしれませんが、実は今のコンビニのバイトを始めるまでに10以上のバイトを経験してきました。

居酒屋のキッチン、うどん屋さん、棚卸し、選挙調査、塾講師、ライター、ホテルの清掃、ホテルの調理補助、パチンコのホール、お弁当の工場などなど…

 

人にもよるとは思いますが、これまでの経験からアルバイトは色々と経験しておくことをお勧めします。

アルバイトにお金を稼ぐ以上に、自己成長や人生経験を求める人は特にです。

 

そもそもアルバイトとは自分の時間をお金に変えるための作業に過ぎません。

基本的に誰でもやり方を学べば特別なスキルが求められることは少ないし、キャリアという切り口で語られることも少ないです。

ケースにもよりますが、アルバイトを始めて半年くらいでやめてしまっても就職に大きな影響が出ることはあまりないでしょう。

 

僕がコンビニバイトに落ち着いた理由は他にも色々アルバイトを経験してきてそこから得られることはある程度得たと思っているからです。

アルバイトに求めるのは、お金以上に経験値です。

 

アルバイトから得られる経験なんてたかが知れてるかもしれませんが、工場やパチンコ店、棚卸しなどの仕事をすることで、これまで知らなかった世界を知ることができました。

 

また、いろんなアルバイトをすることによって、アルバイトとはこういうものだという固定観念から少しは解放されたように思います。

アルバイトは辛いという人もいますが、それはアルバイト先によって違いました。

 

また、アルバイトは単純作業であることが多いです。自分の頭で考えることは少なく、故にアルバイトをしながら何か別のことを考えるということが許されます。

ただひとつのバイトだけをずっとしていると、そこには新鮮感も刺激も少なくなってきて、別のことを考えるにしても考えるネタが少なくなってきます。

 

居酒屋バイトではお客さんの様子からその人の職場のことに思いを巡らせることもあります。パチンコ店では社会の中での経済的弱者の生活について考えることもありました。

選挙調査では有権者がどんな考え方を持っているのかを窺い知ることもできます。

 

ずっと同じバイトをしていたらずっと同じような情報しか得られず、思考が止まりやすくなります。

実際僕はもはやコンビニバイトから得られることはもうあまりないように感じています。

続けている理由はお金のためだけですね。

あと、新しいバイトを始めるのにかける手間や時間が惜しいというところです。

 

バイトに限らず、単調な日々を過ごし退屈をするだけなら、何か新しいことを始めてみることをお勧めします。

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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人1人の限界

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

98記事目ですね。

これまでたくさん考えてたくさん書いてきました。

ここまで書いてこられたのは実は他の人の協力に依るところが大きいです。

 

1人ではこれほどたくさんのことなんて考えられません。

考えることがいくら得意な人でも、何もない部屋に閉じ込められて、何も情報が与えられなかったら、そのうち考えも尽きてきます。

考えるためには思考の材料が必要だというわけです。

 

イベントに行ったり、そこで知り合いができたり、その知り合いとカフェに行って喋ったり、そこからまた別の人を紹介してもらったり…

そうする中でいろんな考え方に触れてきました。

 

僕はまだまだ未熟者です。

考えてはいるものの行動にはあまり移せていないし、情報量も少ないです。

だから他の人から得られる情報であったり考え方にかなり影響されています。

 

昨日の晩もイベントで知り合った友達とカフェでお話ししましたが、自分の人生設計についてかなりたくさんの気づきを得ました。

 

哲学者というものは、なんとなく山奥の小屋で1人思考に耽っているようなイメージがあります。

現代版の哲学者になってもせいぜい書斎で1人で1日を過ごすイメージです。

 

勝手なイメージも度が過ぎる気がしますが、本当はそうじゃないんだろうということを、このブログを書きながら感じています。

 

 

 

人間の限界はどこにあると思いますか?

陸上の世界では、かつて人間の限界だと言われた100m10秒の世界が破れ、複数の選手が9秒台で走り切ります。

9秒の壁もそのうち破れるのかもしれません。

 

人類が月に行く計画も、初めはただの夢だったでしょう。それが現実になった時の世間の盛り上がりはどれ程のものだったのか、僕には想像がつきません。

 

人は、1人で頑張って限界を破ろうとする時でさえ、他の人の影響を受けています。

先人の知恵を借り、技術を借りて限界に挑むのです。

 

74億の人口が、互いに影響しあって生きる可能性を秘めています。

 

人と人との関係によってできるものの大きさは計り知れません。

僕もたくさんの人にたくさんのものをもらいながら生きています。

 

敢えて人間に限界があると言うのなら、その限界は諦めてしまったときに訪れるでしょう。

限界は互いに影響し合うことを辞めた人間にしか、見えないものだと思っています。

 

だから、今はまだ大したことも書けていないし、行動もできていない僕ですが、ポテンシャルは無限大です。

これからも毎日成長しながら生きて生きます。

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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お金の奴隷の感覚

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

今日の晩御飯は学食でした!

野菜スープに餃子の野菜あんかけにごぼうのサラダです。

健康に気を使って野菜はたくさん食べますよ〜≡⊂( ^-^)⊃

学食は安いのに健康的な食事ができていいですね。

 

もっとお金があれば有機野菜のお店とかで食べるんですが…(⌒-⌒; )

 

さて、あなたは外食をするとき、どんな店を選んでどんな食事を摂りますか?

中華が好きな人、フレンチがいい人、少食な人、がっつり食べたい人。

いろんなタイプがいますよね。

 

それでも、食事を選ぶときの基準となるものは数パターンに限られてると思います。

 

あなたは食事を選ぶときどんな基準で選びますか?

栄養バランス?食事のジャンル?店の雰囲気?値段?それとも店のオススメ商品を選びますか?

 

僕は食事を選ぶとき、かなり値段を気にしています。

特に人からご馳走してもらうときはメニューの中でも安いものを選ぶようにしています。

 

選ぶ基準の優先順位としては、だいたい値段、栄養バランス、店のオススメ、嗜好、評判といった順ですね。

もちろん一緒に行く相手によって店の雰囲気を考慮したりもしますが。

 

 

 

金銭感覚というのは、どうやら収入と関係が深いようです。

お小遣いが月500円の小学生にとって、10円のガムを買うことはかなりの決断です。

しかし、年収1000円のビジネスマンにとって、5000円の食事は高いとは感じないかもしれません。

 

いい決断をするためにはできるだけ値段という要素を削ぎ落として考える必要があると思うのです。

本当は1000円の定食を食べたいのに、お金がないから600円の定食にするということは、それだけで心なしか惨めな気分になります。

 

値段だけでしか判断できなくなると、もはやお金の奴隷とも言えるでしょう。

自分の判断ではなく、値段だけに左右されて行動することになるのです。

 

このように、お金だけに振り回される人生は幸せだと思いますか?

 

僕は思いません。

だから、本当は今の内から金銭に対する感覚を磨いておくべきなのです。

 

外食の際は、値段以外の要素も考えて選ぶようにします。

一番高いものを選べとは言いません。

安いけれど欲しくもないものを買わないようにすると言いたいのです。

 

自分の考えている値段のラインをちょっとだけ超えてみる。

それによって金銭感覚が磨かれ、それに見合った収入を得るために必然的に努力しないといけなくなります。

 

逆説的かもしれませんが、少し高いものを買っているとそれに見合った収入が得られ、逆に安いものばかり買っているといつまで経っても収入は上がらないでしょう。

 

そんなわけで今晩は安い学食とはいえ、メインの2品に加え、ごぼうサラダを追加しました。

浪費はいけませんが、自分の金銭感覚のラインをちょっとだけ超える選択をできるようになっていきたいものです。

もちろん、それで破産するようなことは避けるべきですがね…(^^;;

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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もしも〇〇だったら

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

6月は予定詰めすぎちゃいました(^^;;

就活関連のイベントに行ったり、友達と会ったり、オフ会だったり…

勉強やらないとやばいです…(⌒-⌒; )

 

でもそれはそれぞれ何かしらの学びがあって長期的に見たら自分のためになると思っています。

 

今日はもしもの話です。

前にも書いたような気もしますが、考え方というのは時間が経つと多少なりとも変化します。

同じようなことでも書いて無駄はないと思うのです。

ただ、めんどくさくて確認はしてないので本当は書いたことないかもしれません笑

 

それではいきましょう!

 

もしも、ネッシーが実在したら…

宇宙人がいたら…

空飛ぶ車の社会になったら…

瞬間移動ができたら…

 

ドラえもんがいたら叶えてくれるかもしれません。

でも現実には難しいものですね。

 

僕は昔から友達は多い方ではありませんでした。しかし、1人でいて退屈することもありません。

空想力を働かせて遊んでいたのです。

 

今でも、もしも〇〇だったらこんな世界になるだろうなぁ…といったことを1人で考えることがよくあります。

 

こどもみたいと思われるかもしれませんが、もしも今、目の前に光り輝くドアが突然現れたら入ってみるだろうか…

なんてことを考えたりします。

 

もしもこの世に大学がなかったらみんなどんな生き方をするのだろうか?なんて思ったりもします。

 

もしも、の空想は楽しいものです。

現実とはかけ離れたことでも自分の頭の中なら自由に描けます。

 

でも、忘れてはいけないのは、心に余裕がないとそんなことはできないことです。

仕事に忙殺されていては、そんな空想遊びはできないでしょうね。

現実のことばかり見てしまいます。

 

現実のことを考えるのは全く悪くないし、むしろ豊かな人生を送るうえで大切なことです。

それでも、心から完全に余裕がなくなってしまったらそれは辛いと思います。

いわば自分の時間を生きられない状態になりますから。

 

空想遊びなんてこどもの頃だけのものでいいかもしれません。

しかし、そんなどうでもいいことを考えるような心の余裕も少しは必要なのかなと感じています。

 

心の余裕って何でしょうね。

 

空想遊びをしているから心に余裕があると言えるのかというとそうでもない気がしますし、心に余裕があったら空想遊びをするようになるわけでもないでしょう。

 

別に形は何でもいいです。

ただ、自分なりの心が落ち着く余裕のある営みが、この忙しく過ぎ去る毎日の中に、ひとかけらでもあればいいのかなと思っています。

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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方言と外国語の違いは何か

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

突然ですが、皆さんはどこで生まれてどこで育ちましたか?

僕はずっと兵庫で生まれ育ってきました。

そして、ずっと大阪弁を喋っています。

 

大学に入ってからは広島に友達ができて広島弁も多少は喋れるようになりました。

広島の友達と広島弁で喋ると突っ込まれるんですけどね(^^;;

 

さて、方言と外国語の違いはどこにあるでしょうか?

大阪弁広島弁も同じ日本語ではありますが、理解できないこともありますよね?

同じ日本語でも知らないと理解できないことがあります。

 

大阪弁だと「がめつい」とか「勉強して」とか「直す」っていう言葉が他の地域では意図した通りに通じなかったりします。

広島弁だと「たいぎい」とか「酸いい」あたり、ですかね?

 

勉強しないとわからない点では外国語も同じですよね。

 

で、あるにもかかわらず方言と外国語との間には接し方の面で大きな違いがあります。

 

多くの人は、道を歩いているときに外国人に英語で道を尋ねられたら英語で返そうとしますよね。

しかし、大阪の街を歩いていて広島弁で道を聞かれても広島弁で答えようとはしなくないですか?

 

大阪弁で答えても、100%ではないにしてもだいたい意味は通じます。

なぜ英語で喋りかけられたら英語で返そうとするのでしょうか?

 

日本語で答えても、身振り手振りを交えて答えたらある程度は通じると思うのですが…

 

 

 

ここにあるのは違いに関する認識の差です。

つまり、外国語は完全に日本語とは違う。そして、方言ならだいたい同じだから相手に合わせなくてもいいという認識が多くの人にあるわけです。

 

そして、この認識が大きな問題を生むこともあると思うのです。

相手が日本人なら多少出身地が違ってもだいたい同じ考え方だろうという風に認識してしまうことがあるわけですね。

 

例えば外国人を家に招いたときに、土足で家に上がり込もうとしても、外国はそもそも大きな違いがあるから仕方ないと言えます。

しかし、同じ日本人が土足で家に入ろうとしたら声を大にして怒ります。

 

ここにあるのは相手に対する認識の違いです。

 

僕は広島の友達と喋るとき、仲の深さにもよりますが、知っている範囲内で広島弁で喋ろうとします。

これは相手と自分との違いを尊重してのことです。

 

相手は同じ日本人とは言え、自分とは根本的に違うという認識を体現しようとしているわけです。

 

日本人だから全員同じだなんて言えません。

全員が違う人生を歩んでいます。

 

それを完全に自分の中に落とし込むために、方言を覚えることは必要だと思います。

 

さて、方言と外国語は何が違うのでしょうか?

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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自分のことを知るのはいいが、完全にわかってしまうのも面白くない

どーも!ちゃありぃです(^^)

 

インターンの面接を受けてみて、自己分析の大切さが身にしみてわかりました。

自分のことをよくわかっていないとどんなことでもいい選択はできません。

 

極端な例ですが、外食をするときに自分が中華が好きだということがわかっていないと、和食の店に行ってしまい満足できなかったりしますよね。

 

自分が文章を書くのが苦手だし好きでもないというのに、ライターの仕事を選んでしまったら好きでもなく得意でもないことを毎日することになり苦痛ですね。

 

こんな単純な話ではありませんが、自己認識はものすごく大切です。

 

一般的に就活は段階的なものだと考えられています。

簡単に言うと、まず自己分析をして、業界分析、企業分析と進み、最後に面接をするといった流れですね。

 

しかし、これは段階的なものではなく、特に自己分析は常にやっておく必要があると思っています。

 

何も自己分析ツールとか自分診断とか、そういったものをやりますると言う話ではなく、自分のこれまでの行動を見返してみて、どうしてそんな行動をとったのかなどと自問を繰り返すと言うことです。

 

 

 

さて、自己認識は大切だとひたすら強調してきましたが、もし仮に自分のことを完全に理解できるとしたら、あなたはそれを望みますか?

 

完全に理解というのは、仮に想定したシチュエーションで自分が取る行動を正確に予測できるということてす。

 

僕はそこまでは望みません。

 

自分の行動を完全に理解できていたら、恐らく自分に一番向いてる職業に就くこともできるだろうし、一番やりたいことに向かってまっすぐ進めるでしょう。

そして、一番成功に近い人というのは一番自己認識ができている人だと言い切ってもいいでしょう。

 

しかし、僕はそれほどの自己認識は成功には繋がっても幸せにはなれないような気がしてしまいます。

 

自分のすべてのことが理解できるということは、自分のことを客観的に見れるようになるということです。

福田元総理じゃありませんが、自分のことを完全に客観的に見るということは、自分のことを他人として見るということです。

 

僕は自分では何もせず、他人の行動をモニターし続けるような人生に面白みは感じません。

もし自分を完全に理解してしまうと自分が他人みたいに感じてしまうのではないかと危惧しているわけです。

 

まあ、そうは言っても自分のことを完全に理解するなんて到底人間には難しいことでしょう。

こんな議論は何の意味もないかと思います。

 

自己認識を深めていく方針は全然変わりません。

知ることは大切、でも知りすぎてはいけない。

そんなバランスが取れてるといい、と言ったところでしょうか?(^^;;

 

 

 

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました!

 

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